Naked Cafe

横田創(小説家)

あらためてこうして  表象論1

あらためてこうして眺めてみると、あるいは聞いてみると違ったように見えたり聞こえたりするのは日常的によく起きることです。やはりわたしは料理のことを思い出します。ふだん自分でつくっているわたしは、よく自分でもつくるし、何度も食べたことがある料理でも、外で食べるといろいろなことに気づかされます。クラブで音楽を聞くこともそうです。あ、やっぱこの曲好きだなー、なんていうのは序の口で、目から鱗ならぬ耳から知識が、思い込みがぽろりと落ちることがあります。

DJ HIROKAZ "BINRAN CONTINUE" http://d.hatena.ne.jp/hirokaz_nakamura/

そういう意味で、HIROKAZのブログで、わたしが高校生だったころ文化祭で教室を黒いゴミ袋で覆ってむりやり暗くしてカセットデッキでクラスメートと交代交代でDJをするなんてことをせずにはおれなかったほどディスコミュージックが全盛だった八十年代後半に聞いた曲(Michael Sembello "Maniac")を、あらためてこうして聞くと、わたしが高校生だったころとか八〇年代とかディスコとか、そういう言葉でこの曲を聞いていたわたしが否定され、わたしが高校生だったころでも八十年代でもディスコでもない音としてわたしの前に立ち現れる[=現前する]ことがしょっちゅうあって、あらためてDJという仕事の偉大さに驚いたりします。言葉にまみれていたのでも支配されていたのでも思い込まされていたのでもなくて、どこまでも無心に、ただただ聞いていても記憶するには言葉が必要になるそのとき指示していた言葉を介してしかわたしたちはその曲に触れることができないのです。はっぴいえんどの「風街ろまん」など記憶に新しいところです。あらためてこうして聞くことができた、主に八〇年以降に生まれたひとたちが、七〇年代とかフォークミュージックとか神田川とかそういう言葉から「風街ろまん」を自由にしてくれたのだと思う。だけどそのときまた別の言葉を媒介にして「風街ろまん」を聞いていることを忘れてはならないと思う。どんな言葉でこの曲を聞いていたかは、さらに別の言葉でこの曲を聞くことができたときにあきらかになることでしょう。

あらためてこうして書いてみる、文字を展示してみると気づくことがたくさんあります。書くことは、あらためてこうして考えてみることです。表象に与えられたこの力のことを、ブレヒトが異化と名づけたことは有名ですが、要するにそれは、あらためてこうして○○してみることだと思う。なにをどうするもどうしないもなく、そういう問題ではなく、あらためてこうして眺めてみる、食べてみる、聞いてみる、考えてみる。まちがいなくこれは表象に与えられた使命です。言い換えれば、表象とは、どこまでも行為でしかない/であるほかないものである、ということです。

re-presentation[表象=(再)現前化]という言葉がずっとわからなくて、いや、わかるんだけど、むしろわかってしまっていることが疑わしくて、この十年くらいのあいだ、ずっと気持ちが悪いままヨーロッパの哲学書を読んできたような気がします。おそらくそういうひとは多いと思います。そしてこの言葉[representation、表象、代理、再現前化]を使って書いているひとの文章を読んで、おまえ本当はわかってないだろう、ただなんとなくかっこいいから使ってるだけだろうと思ったことが何度もあると思う。誰とは言いませんが、目もあてられないほどひどいものもたくさんありました、読んできました。だけど辞書を引いても書いてあるわけでもなく、たとえ書いてあったとしてもなにがそれでわかるわけでもないので、意識的にこの言葉をXとして括弧にくくってしまって、ひたすらその前後に書かれていることを、余白を、意味をわたしは読んできました。読んでいたのは主にフランスの哲学者たちの本で、ジャック・デリダラクー=ラバルトとジャン=リュック・ナンシーです。それでも最近少しだけ、わかり始めたことがあります。あらためてこうして考えるために、ここに書いてみたいと思います。

re-presentation[表象=(再)現前化]。そもそもどうしてこんな複雑な書き方をしなければならなかったのか。そこにはかならずフランス語を日本語に翻訳する=表象するの際の困難があるはずだと思いました。「おまえ本当はわかってないだろう、ただなんとなくかっこいいから使ってるだけだろう」に陥ったしまったひとたちの多くが、現前化と再現前化におおきな違いを見ているようですが、まずこれが違います。どうやらオリジナルとコピーとか、アニメや漫画によく使われる二次創作なる言葉に惑わされているようです。実際そういうひとたちが教科書にしている「おまえ本当はわかってないだろう、ただなんとなくかっこいいから使ってるだけだろう」さんたちの文章の中ではそのような意味として使われています。ひどい話です。なぜならそんなところに表象が抱えた問題は、問うべきことはひとつもありはしないというのに、まるであるかのように思わせるからです。

現前化も再現前化もおなじことです。表象であることには変わりません。だったらどうして「再」という言葉を頭につけたりつかなかったりするのかというと、現前化は、つまりは表象は、一度しか行為できないものでは原理的にも現実的にもありえないことを、何度でもやり直すことができるどころか、この「何度でもやり直す」ことそのものであることを翻訳者[=哲学者]たちは注意を促しているのです。表象することは無限に表象し直すことである。つまりは再現前化という可能性を奪われた現前化は現前化ではなく現前[presence、実在]であると、この訳語(re-presentation[表象=(再)現前化])は言っているのです。「あらためてこうして」は、すべて再「あらためてこうして」なのです。知識、すなわち全体化されたもの(=実在という観念)から自由にする/になることなのです。なぜなら「あらためて」だからです。どの「あらためて」も、たとえいまここにいるわたしにとっては一度目でもすでにn度目なのです。

そうではなくて、哲学者[=翻訳者]たちが決定的な違いを見ているのは、現前[presence]と現前化[presentation]のあいだなのです。後ろに「化」がつくかどうかですべては決まると言っても過言ではありません。日本語の「化」とは行為を表す言葉です。もしくは行為に、運動に、ある種の変化に、思考に、生成にそれを見ることです。「それ」とはすべてのことです。ありとあらゆるすべてのことを「もの」として見るか「生成」として見るかはギリシアの時代からわたしたちが延々と議論してきたことです。この対立は「現前」と「現前化」にも引き継がれています。

十年くらい哲学書と呼ばれるものを読んできて、ようやくわたしが気づいたこととはこのことです。このこととは、表象とは、ものではなく生成であり、運動であり、人間的に言えば行為することであり、思考することであり、生きることだということです。その思想が「表象=(再)現前化」という独特なフランス語=日本語の訳語の中に静かに、だけど確実に込められているのです。表象とは壁に掛けられた絵画のことではなく、それを言うなら壁に絵画を掛けることです。という意味で、音楽を(再)現前化するDJという仕事など表象そのものであると言えるかもしれません。わたしはアンディ・ウオーホルの仕事を思い出しています。そして目黒の美術館で見た石内都の写真展(「ひろしま/ヨコスカ」)を思い出しています。描いたもの、撮ったもの、作ったものを展示するのではありません。表象とは、なにはさておき展示することなのです。この何度でも、それが何度目であっても、最初であること、そして最後であることだけは決してない、あってはならないn度目の中で展示する[re-presentationする]というカテゴリーの中に「描く」や「作る」や「書く」や「食べる」や「歌う」や「踊る」や「滑る」や「飛ぶ」や「走る」や「蹴る」や「弾く」や「笑わせる」や「読む」や「唱える」や「撮る」や「編集する」や「鑑賞する」があるのです。これらすべてが表象です。それが誰かの、自己も含めた他者[autre]の前であるなら、すべてはre-presentation[表象=(再)現前化]することです。あらためてこうして「表象」することなのです。とわたしは思うのです。と表象=(再)現前化するのです。と表象=(再)現前化するのです。と……。

盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟

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近代人の模倣

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神的な様々の場 (ちくま学芸文庫)

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