Naked Cafe

横田創(小説家)

表象のパラドクス 表象論2

たとえば、西瓜。いまごろ日本各地の畑で、あんなにおおきなものが、あんなにたくさんごろごろしていると、見る者が声をあげずにおれないほどまるまるとふとった西瓜。濃い緑の中にかなり大胆なタッチで黒い亀裂模様を走らせた西瓜。叩くと厚い皮が太鼓の膜のように震える西瓜。ツァイ・ミンリャンの西瓜。まっぷたつに割られた西瓜。赤い汁が手首を伝ってぽたぽたと肘の尖った骨の先から落ちる西瓜。スイカ。すいか。……いまここにどう書こうとも、どんな言葉で表象しようと、わたしたちが夏が来れば毎年のように経験している、食べている、見ている、これ、おっもいねーと言いながら、はしゃぎながら両手で抱えるようにして持ち上げているあれではない。西瓜という言葉であって、西瓜そのものではない。だけどいまこれを読んでいるあなたは、わたしが表象しているものが西瓜であると認識している。今年はまだなら、まるで去年の夏を思い出すようにその姿を思い描いている。西瓜は西瓜であるのかないのか。

表象のパラドクス。表象の数ある性質の中でも、すべての性質を貫くこのパラドクスを強調したいとき、哲学者[=翻訳者]たちはrepresentation[代理=表象]と翻訳する。それ「でない」ことでそれ「である」のが表象である。表象が、なにはさておき「代理」するものであるのはそのためである。

舞台でマリー・アントワネットを演じる、つまりはマリー・アントワネットをrepresentation[代理=表象]する俳優は、マリー・アントワネット「でない」ことでマリー・アントワネット「である」。なぜならもしその俳優が俳優でなくてマリー・アントワネット本人であったとしたら、当たり前だが、マリー・アントワネットとしていまここにあることはできない。つまり俳優はマリー・アントワネット「でない」からこそマリー・アントワネット「である」ことができるのである。

海面から突き出たおおきな岩がある。たとえ夏であっても、そこまで自力で泳いでいける自信は持てないくらい遠く離れているから正確なことは言えないが、巨木の胴回りを測るようにおとなの男が両手をひろげて繋いで抱えるには少なくとも十人は必要なのではないかと思われるくらい、それくらいおおきな岩である。その岩をrepresentation[代理=表象]する写真がいま、代々木上原サンマルクカフェのテーブルの上にある。その写真は海面から突き出たおおきな岩「でない」ことで海面から突き出たおおきな岩「である」。もので言えば印画紙、ただの紙である。もしその写真が写真でなくて、海面から突き出たおおきな岩そのものであったとしたら、代々木上原サンマルクカフェは甚大な被害を被り、コーヒーを飲みながらチョコクロを食べているひとびとはかならずやパニックに陥ることだろう。つまりその写真は海面から突き出たおおきな岩「でない」からこそ海面から突き出たおおきな岩「である」ことができるのである。

それからは万事が速やかに進んだ。法廷は閉じられた。裁判所を出て、車に乗るとき、ほんの一瞬、私は夏の夕べのかおりと色とを感じた。護送車の薄闇のなかで、私の愛する一つの街の、また、時折り私が楽しんだひとときの、ありとある親しい物音を、まるで自分の疲労の底からわき出してくるように、一つ一つ味わった。すでにやわらいだ大気のなかの、新聞売りの叫び。辻公園のなかの最後の鳥たち。サンドイッチ売りの叫び声。街の高みの曲がり角での、電車のきしみ。港の上に夜がおりる前の、あの空のざわめき。──こうしてすべてが、私のために、盲人の道案内のようなものを、つくりなしていた。(アルベール・カミュ『異邦人』訳・窪田啓作)

わたしたちは、マリー・アントワネットをどのようにして知ったのだろうか。おそらく歴史の教科書や歴史ものの書籍や映画や漫画というrepresentation[代理=表象]を通して知ったのだろう。なのにわたしたちは、マリー・アントワネットが18世紀のフランスに存在したからrepresentation[代理=表象]することができたと考えてしまう。かつてそうであった/もはやそうではないものを、誰かがrepresentation[代理=表象]することで知ることができたと、順序を逆にして考えてしまう。いや、だってマリー・アントワネットが存在しなければrepresentation[代理=表象]することはできないではないか、対象がないではないかと言うなら、ではマリー・アントワネットが存在したと、実在の人物なのだとわたしたちはどうやって知るのか、知ったのか。それもやはりマリー・アントワネットのrepresentation[代理=表象]によって/においてなのではないか。ていうかそもそもマリー・アントワネットという名前からしてrepresentation[代理=表象]なのだから、つまりはわたしたちはわたしたちの目や耳や鼻や、あらゆる感官を通して、想像力を駆使して知ることができたすべてのものはrepresentation[代理=表象]なのだから。わたしたちは誰も彼もが生まれながらにして対象そのものを、その物自体を知らない盲人なのである。……こうしてすべてが、私のために、盲人案内のようなものを、つくりなしていた。

表象するものが、表象されるもの(=対象)に先立つ。対象、モデルとはすべて表象、コピーによって/において後から産み出されたものである。なにもわたしは芸能人のゴシップ記事のことだけを言っているのではない。受け取ることができたもの、かたちあるもの、可能なものはすべてrepresentation[代理=表象]である。もし表象されるものが表象するものに先立つなら、手紙を読んで相手の真意を、こころを読み違えているのではないかと夜も眠れないほど心配することもないだろう。なにしろ相手の真意が、こころが手紙に先立ち、あらかじめ直接わたしに与えられているのである。相手の真意を、こころをわたしは先に知っているのである。相手のこころを読み違えているのではないかと怖れる必要などないはずである。だがそれはありえない。原理的にも現実的にもありえない。わたしたちが相手のこころを知るためには、手紙や笑顔や、朝まで一生懸命話してくれたことや、メールで誘ってくれたライブの演奏や、あるいはそのお誘いメールの文面の中の絵文字のハートマークというrepresentation[代理=表象]を媒介にすることでしか知ることができないのだから。そのrepresentation[代理=表象]を見たり読んだり感じたりして、ライブに行こうと、このあいだのことは水に流そうとやっと決心することができるのだから。

○○でないことで○○であるもの。代理=表象。たとえ、かつてそうであった/もはやそうではない過去のものであったとしてもrepresentation[代理=表象]は対象に先立つ。なぜならrepresentationは「もの」ではなくて機能だから。運動だから。想起と呼ばれる行為だから*1。二十四時間三百六十五日、寝ずの番をしている。なにかの代理をするのではなく、代理という機能、運動の中からなにかが生まれる。そんなこと、ありえないと思うなら、どうしてあれだけのひとがきのう選挙に行くことができたのかとわたしは問いたい。representation[代理=表象]という機能に、運動になにかが先立つと言うのは、選挙をする前から選ばれるひとが、国会議員が決まっているくらいおかしな話である。

日本国の国会議員は、日本国民のrepresentation[代理=表象]である。わたしたちが映画や漫画を通してマリー・アントワネットを知ったように、諸外国の人々は菅直人のあの薄ら笑いを通して日本国を知るのである。菅直人は日本人であるあなたに先立つ。あなたからすれば、それは日本人に対する誤解であるとしかいいようがない理解をしている相手と、たとえばデンマーク人とあなたはこれから顔を合わせなくてはならない。だがそのあなたも日本人のrepresentation[代理=代表]であり、別の誰かにとっての「それは日本人に対する誤解であるとしかいいようがない理解」を産み出すrepresentation[代理=表象]なのである。なぜなら「日本人」や「日本」という言葉からしてrepresentation[代理=表象]だからである。まさか日本や日本人が先にあって、それを「日本」や「日本人」とrepresentation[代理=表象]していると思う者などいるまいと思うのは、わたしの甘い考えなのか。「もともと」とか「復活させる」とかいう謳い文句が選挙の広告の中で踊りまくるこの国なのだから。

わたしたちは、いまここにわたしが書いたようなパラドクスに陥っていない、○○でないことで○○であるものを通じて、つまりは媒介せずに○○を直接知ることはできない。海面から突き出たおおきな岩「でない」ことで海面から突き出たおおきな岩「である」ものを眺めて知ることができるのは、その「海面から突き出たおおきな岩」ではなく、また別のなにか、たとえば地殻変動である。眺める限り、それを見る限り、わたしたちは「それ」を媒介にして別のなにかを知ってしまう、考えてしまうのである。手紙に「ゆるす」と書いてあったから相手はもう自分をゆるしてくれたとすぐに思うことができるなら、わたしたちはわたしたちのほとんどすべての悲しみから救われるのだろうが、どうしてもわたしたちはその意味を、つまりはその言葉はほかのどんな言葉の、気持ちの代理なのか、表象なのかと考えてしまう。隠喩として書くつもりも、表現するつもりもなくても隠喩になるのが言葉である。「ゆるす」と書いた本人に、隠喩にするつもりも換喩にするつもりも、はたまた提喩にするつもりもなかったとしても同じである。ほかのなにかを意味する可能性を言葉から奪い去ることはできない。なぜなら言葉とはrepresentation[代理=表象]という"そのものでないもの"そのものなのだから。まだハイハイすることもできない赤ちゃんが、やんややんやと絵筆を振って描いたものであっても「あれ? これ象みたい、ゾウさんみたいだねー、お上手だねー」と、わたしたちはそこになにかを見ずにはおれない。親方が「レンガ」と言うだけで「レンガを持ってこい」と弟子の耳には聞こえるウィトゲンシュタインのあの話は、教えるー教わる立場うんぬんを論じる話である以前に、代理=表象するものが代理=表象されるものに先立つことのひとつのrepresentation[喩]だったのではないのか。自分を産む前の母親の写真を、つまりは自分の知っている母親「でない」少女時代の母親の写真を見て、これはわたしの母親「である」と思わずにはいられないのは、ロラン・バルトだけではないだろう。このパラドクスから逃れる方法は、なにも表現しないこと、representation[代理=表象]しないことだと思って黙っていると*2、これが最も強烈になにかを意味し、思わぬ誤解を産むことは現実的かつ具体的に誰もが知ってることだろう。

わたしたちはもはや黙ることはできない。なにかのrepresentation[代理=表象]でないことも、なにかにrepresentation[代理=表象]されないこともできない。なぜなら「わたしたち」こそが互いに互いを代理=表象しているrepresentationという運動、あるいは関係そのものだからである。なぜならわたしたちは、自己でないことで自己であるものたち、他なるものによって/においてしか自己を知ることはできないからである。他なるものとはなにか。これをラカンは「大文字の他者[Autre]」と呼んだのだが*3、いまここで言うところのrepresentation一般である。つまりは代理=表象することそれ自体。representationは、誰にとっても、なににとっても代理=表象であるほかない、それ自体であることはできない他者なのだから。

*1:「あらためてこうして」表象論1 参照

*2:語りえぬものについては、沈黙しなければならない[What we cannot speak about we must pass over in silence]ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

*3:十川幸司精神分析的思考 ラカン理論における経験と論理」参照 ……『批評空間2-25』所収