Naked Cafe

横田創(小説家)

子供の映画

なにも母や父が特別なのではない。家族というものはやはり大切で、自我の形成に決定的な影響を及ぼすのでもない。ただそれは連続している。どこからどこまでが自己で自己でないのか、まだ確立していないのが子供なのではなく、とりあえず母や父などよゆうで自己の範囲にあり、母や父にまつわる記憶は世界と同義であり、その繋がり[=連続]を奪われることは死に等しく、死を意味するというより、死である。そしてわたしたちは、この死を自己の誕生、つまりは他なる自己との別れ、自我の確立として認識している。

誰もが一度は見たことがあるだろう、隣りの子供が、別に特別友だちというわけでもなかったどころか、たまたま隣りにいただけの子供が泣き出すとほぼ同時に泣き出す子供を。子供のころのニーチェは車をひく馬の首に抱きついて泣いていたことがあるという。同情しているのではない。最初から同じ感情の中にある[=連続している]者に同情する必要はない。子供とは感情である。だから、子供は感情を持たない。ただそれと連続している。感情の中を漂っているのですらない。感情の中に自己が溶けているのでもない、死体となって土に還ることを自己が土の中に溶けたとは言わないように。子供とは感情である。自己を失い、他者となったたのではない。水の中を流れる水のように、他者の中で他者として振る舞う。ゆえによく泣く。泣くの中でよく泣く。誰かが走れば走り、誰かが食べているのを見れば、わたしもー、ぼくもー、とせがむ。子供はみんなと同じにしたがるのではない。みんななのだ。

「すべてが○○である」ものは「感情」と呼ぶこともできるし「子供」とも呼ぶこともできるし、あるいは「世界」と呼ぶこともできるだろう。ただそれはなにかを失ったわけでも、病気になったわけでもない。ただそれは連続している。空と共に揺れる巨大な竹林は、両親の離婚に直面した子供の揺れる気持ちや不安を表しているのではない。空と共に揺れているのは子供なのだ。

わたしは「お引越し」(監督・相米慎二)を数年ぶりに観て、子供にとっては、見るものすべてがトラウマになる可能性の中にあるのを知った。実に簡単なことである、それはそれであっておまえではないと子供に思い知らせれば、それはすぐにでもトラウマになる。つまり子供にとっては、毎日が事故で事件で大惨事なのだ。いまここにあるすべてのものが死滅してゆく。なのになぜ自分だけが生き残ったのか。大人であるわたしたちが自責の念にとらわれ精神に失調をきたす事故や事件や大惨事を子供は毎日、毎分、毎秒、経験している。

そして言葉(という非連続なもの)は、かつて連続していたすべてのもの(の連続性)を取り戻そうとする。それをわたしたちは「恋」とか「怒り」とか「おせっかい」とか「批判する」とか「絶賛する」とか言うのだけれど、それらすべては失われた連続性を求める行為であるに過ぎないのか。わたしの関心は、やはり、いまもここにある。「お引越し」という子供の感情に連続している子供の映画を観ながら、わたしは忘れたことも忘れられていた悲しみを、別れを、あらためて知ったのだった。

お引越し デラックス版 [DVD]

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