Naked Cafe

横田創(小説家)

他人の国

選挙という嫌な季節がやってきた。政治家の口からポピュリズムという言葉を聞くたびわたしは片腹痛くなる。ちゃんちゃらおかしい。ポピュリズムにのっとってない政治があるなら見せて欲しいと思う。それは選挙によって選ぶのではない政治家たちの政治で、いまの日本の政治家の誰もが嫌いな共産主義の、それも一党独裁型のエリーティズムスターリニズムの、官僚主義の政治だ。そうでなければ国連だけが議会であるような政治形態なのか。当然のことだが、選挙制度(代表制)を維持しつづける限り、政治家がポピュリズムから、自国民の人気を得なければならないという強迫観念から自由になることはない。

だからわたしは選挙に行かない。行か「ない」といっても消極的にではなく、積極的に行かない。それがわたしの投票で、一票なのかと聞かれれば、そうではないとわたしは答える。単にわたしは選挙に行かない。国家というものは不可避にして不可欠の、エレメンタルなものであるという認識がないから? 確かに、それもある。けどその前に、選挙によって選択すればかならず誤った行動をするのがわかっているのに選挙に行くことなどできないからだ。

わたしが理想とする社会は、誰もが政治に関心を持ち、投票率が50%とか60%にのぼるほど誰も彼もがこぞって選挙に行くなどという愚行をおかす暇も時間も余裕もないほど日々の生活に誰もが一生懸命で、制度の改正にではなく、他人のこころにこころをくだいている、そんな社会だ。いつから政治が公的なものなどと呼ばれて、ひとのこころの問題など政治というおおきな枠組みにくらべればささいな個人の問題として扱われるようになったのだろう。こころは公的な問題でも個人の問題でもない。もしそうだとしたら、それはこころではない。なぜなら他人のこころだけがいつも自分のこころだからだ。不可避にして不可欠に他人のものであると同時に自分のものであるこころ以上に、関係以上に公的なものなどあるはずがない。

要するに、自国の政治など政治ではない。国内だけの法など法と呼ぶに値しない。それでも政治をするなら、やりたいと言うなら、せめて国会はサッカーみたいにホーム&アウェイ方式でやるべきである。アウェイで決議に持ち込んだ/持ち込まれた法案は、きっとホームで決めた法案より重く信のある法に、ルールになるだろう。外交だけが政治であると言いたいのではない。内政干渉だけが政治であると言いたいのだ。国際情勢だけがわたしたちの気分で、わたしたちのこころであると言いたいのだ。

確かに、アメリカが中東や西アジアの諸国でやることなすことすべてまちがっていたし、オバマ=民主党政権になったいまもまちがったことをしようとしている。けど、とわたしは言わない。そんな接続詞を使う必要はない。だからこそそこで議論が行われるべきだと言いたいのだ。これは外務大臣や外務省の人間だけに任せておくべきことではない。即刻、すべての国会議員を解雇して、他人の国について考えることが、こころをくだくことができるものだけ「外国会」に出席するべきである。つまり、いつの時代の政治も国連だけが問題なのだ。県知事、府知事、都知事になって、ふんぞりかえっている政治家などもってのほかだ。もちろん、わたしは地方分権に反対である。国に問うべき政治がないのに県や市や村にあるわけがない。地方分権どころか、国家に分権された政治を世界に返還するべきである。そして個人に分権されたこころを他人たちのこころに、関係に、言葉に還元するべきである。