Naked Cafe

横田創(小説家)

埋葬

あたしが死んだことを受け止めてくれるなら、あたしのことを思い出さない日は一日だってないままあたしのことを忘れてくれると思う。植物が日の光に向かって葉をひろげるように、あたしのことを思い出せば思い出すほど忘れてくれると思う。

『埋葬』はどこから来たのか。なにがわたしにこの本を書かせたのか。誰がわたしの死者なのか。わたしは死者たちを思い出さないことは一日だってないまま忘れている。忘れていることのゆるしを乞うこともなく忘れている。植物が日の光に向かって葉をひろげるように。どの廃墟の中庭も奇妙なくらいいつも明るいように。新木場のビッグサイトのコンクリートで区切られた空のように。死者たちのことを思い出せば思い出すほど、書けば書くほど忘れている。なぜなら書くという行為もまた死者になることなのだから。思い出される死者たちの側に移りゆくことなのだから。死者は誰よりも後からやって来る。生きている限りわたしたちは彼女たちのことを知らない。死者たちの中に男性はいない。なぜなら誰もがアンティゴネーのように「婚礼の歌も聞かずに、閨も見ず、夫婦の縁も結ばぬうち、子の養育も許されずに、このように、親しい者にも見捨てられ、みじめな運命に、生きながら、死人たちの籠もる洞穴に出掛ける」者なのだから*1。自分だけはそうでない死者に、なにごとかのことを為してから死ぬ者に、名を為す男になるという夢は、ただひとりの例外もなく夢のまま終わる。女の夢とは……。


『埋葬』の装画(の樺の森の、生い繁る草の前に=中に佇む赤いスカートの女の子の背中の、まるで彼女の感情としか思えない樺の森の、生い繁る草の前に=中に……)を提供してくださった上村亮太さんが日記に、ブログというよりネット上の日記に『埋葬』の感想を寄せていただきました。→上村亮太"day by day"

「読み進んでいくと、ちょっと狭い場所になって、それから、やがて、見晴らしのよい草原のような広い場所になって」……まさにそれこそが上村さんの仕事に、特にネット上に、もう何年もずっと、ずっと毎日二枚ずつ発表しつづけているドローイングの連作にわたしが感じていたこと、見ていたことでした。上村さんがいまなお、きっとあしたもあさってもずっと、間違いなく自身の死後もずっと発表しつづけてゆくことになるにであろう仕事こそ"純絵画"だと、つまりは絵画の運動、絵を生きることだとわたしは思います。

切り崩された崖の上の、廃墟のような平屋の家屋と石の階段。フレームの外から絵の中に「お邪魔しまーす」な女の子の足。見たことがないお伽噺の、桃太郎の前か後ろの語りの顛末、線画の紙芝居。工場の、ベルトコンベアーの、あるいは生コンの、工事現場の、切り開かれた大地の、噴火する火山の、ダムの谷の水の、蛍光の水色の、そして黄緑色の流出。スカートやブラウスの中の蝶の舞、花の咲き乱れはスカートの、そしてブラウスの線を越え、ドローイングのフレームすら越えて流れ出し、パソコンのモニターの光に透かしてその絵を、その色を見ているわたしの目の中に滞留する。サンダルの、足の甲からにょっきり生えた茎の先の黄色い花が、その女の子の足が、その遠慮がちな、絵の天からの差し出し方が好きでした。樹林帯ベイビーの樺の森は、これが初めてではないですよね。水色の靴下を、手袋をした女の子の樹林帯も、このベイビーも好きでした。いまJim O'Rourkeの"Life Goes Off"を聴きながらこれを書いています。上村さんの絵を初めて見たのは六本木クロッシングでした。驚きました。紙テープで貼られた絵が、ビルの空調の風になびいていました。それは六本木ヒルズの、森美術館の中に出現した新しい自然でした。描いている自分の手の先の、目の先だけがいつも充実している。上村亮太さんの感情としての風景を、ぜひこの機会にご覧下さい。→上村亮太・DAY BY DAY

参照→「感情としての風景