鏡を割っても割っても、小さな破片のなかに空が映っている。巣のないツバメ、もちろん聞きおぼえのない女の叫び、今シャッターを閉めたのか開けたのか、朝なのか夕方なのか、姿の見えない救急車は病人を迎えに行くところなのか搬送するところなのか。モンマルトルの墓地に居並ぶ小さな教会のような霊廟は、死者を忘れぬ記憶ではない。死者だけが記憶なのだ。墓前で枯れてゆく生け花も、十字架をかたどった墓石に咲いた陶器のバラも、周期が少し違うだけで、それぞれがそれぞれのリズムで、思い思いの死のなかにいる。自分自身を記憶として、記憶自身として、いつまでも青い夏の夕暮れのなかを漂っている。霊廟の扉に、背に、その壁に、美しく描かれたステンドグラスの彩りのなかにではなく、射し込む光を困惑させるガラスの歪みや、欠損、変色、破れた扉から吹き込む枯葉や紙屑、汚れきったマリアの像だけが、墓石に刻まれた人間の名とともに地上の音楽を奏でつづける。生前も死後も変わらぬ心優しき悲惨のなかで。
ここがパリのアパルトマンの八階でなくても、それはどこでも同じこと。いつでもこの世界は持ち主の分からぬ記憶と記憶が永遠の夜のなかで語り合うカフェなのだ。
誰を記憶するでもなく、誰に記憶されるでもなく、自分自身を記憶する光の情景。私たちが記憶と呼ぶもの、それは単なる記憶の記憶で、記憶の痕跡に過ぎない。記憶にラベルをつけて整理整頓し、お行儀良く過去から未来へ一直線に並べ直すことがもし記憶であるなら、世界は何と貧弱で頼りなく、暗く悲しいものだろう。忘却。記憶の本当の名前。光り輝く彼だけがこの世界を愛しつづける。
午前七時にセットした目覚まし時計が鳴り響き、甘い夢から、つらい夢から、目覚めたと思い込んでいるだけで、私たちは再び覚めることのない夢を見始めている。永遠の目覚めのなかで記憶を真っ白にする。まるで読書をするように。あんなに興奮しながら読んだはずなのに忘れてしまった自分の記憶力のなさを嘆くのは、忘れてしまった夢を本気で悔しがる偽小説家と同じくらい滑稽なのだ。また読めばいい。書けばいい。言葉という記憶は最初から最後までそうした行為のなかにしかない、一瞬の、そして永遠の、忘却なのだから。
忘れることでしか、何かをすることでしか、私たちはその〈何か〉を思い出せない。それが私たちという千の身振りの蠢く場所のない空間、身体なのだ。私たちが「生きる」と呼んでいるものこそ忘却の時間。自分自身が生まれたときから遠い昔の誰かの記憶であり、これから会うこともない未来の誰かの記憶であることを、私たちは知らない。知らないだけで本当は何もかもが今ここにある。私たちが今食べているパンとワインは、旧約聖書という記憶のなかで食べていたパンやワインと、新約聖書など読んだこともない記憶が食べているパンとワインと、同じもの。いつでもこの世界は最初にして最後の晩餐なのだ。私たちの血と肉、それが私たちの記憶。誰かを記憶することに使命を感じ(記憶しないことに罪責感を覚え)、誰かに記憶されることに誇りを感じ(記憶されないことに怖れおののく)私たちの見えないところに記憶はある。忘却だけが、それを知っている。私たちを、知っている。
記憶のなかに私たちを記憶として還すとき、また何かが始まる。終わりのなかで復活する新しい時間が、今また始まろうとしている。
一日中開け放たれた白い扉の向こうに二段ベッドの見える向かいのアパルトマンの窓辺から、白と黒の猫が私たちを見ている。あなたがカメラを探しているうちにいなくなってしまった小さな亡霊。いつでも古くて新しい私たちという窓辺で揺れる白いカーテンが、見えない何かを見せてくれるかのように、光とともに、優しくあなたを包み込む。忘却のなかに、記憶のなかに、今、私たちはいる。
(……以前は降誕祭の夜には必ず足を運んでいた(市ヶ谷の、あるいは四谷の)カソリックの教会に、もう何年も足を運んでいないわたしの記憶として、八年前の真夏に雑誌『すばる』に寄稿したエセーを、いまのわたしが書いたものとしてここに転載します。忘却。記憶の本当の名前。光り輝く彼女だけがこの世界を愛しつづける。『埋葬』を書き終え発表したいま、まったくその通りだと思う。)