Naked Cafe

横田創(小説家)

声の永遠回帰


ずっとむかしから、早逝したミュージシャンや伝説のバンドについて語るのも語られるのが苦手で、なぜかというと、正直、好きなミュージシャンやバンドについて語るひとたちのノリについていけなかったからで、けどそれは、なにもバンドに限った話でないことに最近気づいた。作品についてではなく、せめて作品「から」でもなく、大作家、天才作家を語るひとたち。往年の、いまの作家に憧れるひとたち。そこには作家本人がお互いのことを語り合うことも含まれているのだけれど、要するに、表現を人生に、誰かが誰かとして生きている/いた、たかだか数十年のわずかな期間に還元することでしか語ることができないヒューマニズム[人間中心主義]に取り憑かれたひとたちをわたしはいまでも軽蔑している。

天才の誰々、ではなく、誰々の天才、という言葉を知ったときの喜びをいまでもわたしはおぼえている。たとえば、坂口安吾の天才は、渡辺一夫に「ただこれは坂口さんにお尋ねしたいのですが、『ヒメ』とか『オレ』とか、なぜこんなに片かなを使われるのでしょうか」と『群像』の創作合評で言わしめた破天荒な文体にある、とか。このレトリックがあれば形式について考えることができる。そしてそれは形式である限りにおいて、安吾でなくても実践することができる(=安吾である必要はない)。だから、誰々にしかできないことを、誰々にしかできないからこそ意味があり価値があると興奮しているひとたちの話を聞いたりブログを読んだりすると「馬鹿だな」とわたしは思う。「そのひとが天才だったからそうすることができたのではなく、そうすることができたから天才と呼ばれるようになっただけのことなのに」とわたしは思う。主語と述語が逆転している。ユダヤ人を大量虐殺したから彼はヒトラーとして記憶されたのであって、ヒトラーだからそうしたわけではないのに、同じような原因と結果の履き違えが、誤謬が、人間の進化と発展、さらなる天才の出現を信じて疑わないヒューマニストの中でいまも起きている。

だが、いまのわたしの興味はここにはない。それらすべてのものを、わたしがいまここで書いているような正しさをすべて受け入れ、すべて認めた上でもなお「ヒューマニズム」を標榜する者がいるとしたら、そこにはどんな天才があるのだろうか。『実存主義とは何か』の中で「実存主義とは、ヒューマニズムである」と書いてハイデガーに破門されたころのサルトルはなにを考え、なにを志向していたのか。『作家は行動する』を書いていたころの江藤淳と、『漱石とその時代』を書き継ぎ、やがて『一族再会』へと向かおうとしていたころの"江頭"淳の中でなにが肯定されなにが連続しているのか。ヒューマニストは例外なく、アンチ・ヒューマニズムヒューマニズムの反動と捉える*1。それがヒューマニズムルサンチマンに貫かれた思考であることのわかりやすい、あまりにわかりやすい症例であるのはわかっているが、なぜ命はかけがえのないものなのか、かけがえのないものとアプリオリに思うわたしたちの理性の不思議は残る。かけがえのない命とひとは言うけど、その「かけがえのなさ」が言語や音楽、絵画や映画といった、ありとあらゆる表現の否定であることに、なんでそんな簡単なことに気づかないのか。その「かけがえのなさ」を当たり前のこととして、単純に信じるヒューマニズムには興味がないのは当然だが、いまのわたしは、単純にその「かけがえのなさ」を否定するアンチ・ヒューマニズムにも興味が持てない。入り口はどちらでもいい。突き詰めるか突き詰めないかだけが問われるべきこと。ニヒリズムの完成=絶望の果てに超人を、永遠回帰を見たニーチェのように。

だからといって、いまはもうこの世にいない伝説のミュージシャンであり、三十三歳という若さで死んでしまった彼の、佐藤伸治の声を生で聴くことは二度とできないと思うから、思うと悲しくなるから涙が流れるのではない。わたしには、涙も死も悲しみも同じものに思える。すべては声で、直接的で、雨が降るように近くて遠いものに思える。いまのわたしに言えることは、この声の「かけがえのなさ」は佐藤伸治という人間の「かけがえのなさ」から来るではなく、声の、声というありかたの「かけがえのなさ」から来るものであるということだ。彼は声になったのだ。Fishmansというバンドのボーカルとして、常に声になりつつ、生成しつつあったのだ。そのほかのことはすべて「おまけ」だ。少なくとも、彼にとってはそうだったのだろう。そうでなければ、こんな声になることができるはずがない。彼にとって死は、歌うのに、声になるのに構造的に、アンチ・ヒューマニズム的に(=現象学的に)必要不可欠だったのである*2。声の系譜学こそわたしの興味。この声に乗って、わたしたちはどこへ行こうとしているのか、どこへ連れて行かれようとしているのか。声をカヴァーするのではない、声にカヴァーされているのだ、わたしたちは。わたしたちというつねにしてすでに「新しい人」たちは。

Fishmans + 佐藤伸治 - Walking In The Rhythm

Fishmans + UA - Walking In The Rhythm

Fishmans + 佐藤伸治 - 新しい人

Fishmans + UA - 新しい人

*1:喪失を謳い、嘆き、懐かしむ疎外論的な共同体論は、失われたものを、誇りを、神話の中にしかない「あのころの僕ら」を取り戻すために、やむにやまれず打ち立てられる。

*2:私の死は、〈私〉という語を発するのに構造的に必要不可欠である。私もまた「生きている」ということ、そして私がそれを確信しているということ、そのことは、意-味のおまけとしてついてくるのである。……ジャック・デリダ『声と現象』「根源の代補」訳・林好雄 ちくま学芸文庫 p.216