今朝の蕎麦。スープのベースは白ごはん.comのうどんの汁(分量は2人分)。醤油を大さじ一杯足して蕎麦用にアレンジ。イワシはみりんで溶いた味噌をまぶしてジップロックの袋の中で3日くらい漬けたもの。ネギは下仁田葱を極薄な斜め切りにしたものです。メモ:穴熊は朝から麺類を(特にうどんを)食べるのを好む。
『落としもの』取扱書店
◎北海道・東北
◎上信甲越
◎関東
うさぎや宇都宮駅東口店(栃木県)
ときわ書房志津ステーションビル店(千葉県佐倉市)
◎東京都
かもめブックス(東京都新宿区)
神楽坂モノガタリ(東京都新宿区)
芳林堂書店高田馬場店(東京都新宿区)
紀伊國屋書店新宿本店(東京都新宿区)
伊野尾書店(東京都新宿区)
ジュンク堂書店池袋本店(東京都豊島区)
三省堂書店池袋本店(東京都豊島区)
くまざわ書店池袋店(東京都豊島区)
青山ブックセンター本店(東京都渋谷区)
代官山蔦屋書店(東京都渋谷区)
SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(東京都渋谷区)
二子玉川蔦屋家電(東京都世田谷区)
本屋 B&B(東京都世田谷区)
本屋 Title(東京都杉並区)
マルノウチリーディングスタイル(東京都千代田区)
三省堂書店神保町本店(東京都千代田区)
SUNNY BOY BOOKS(東京都目黒区)
双子のライオン堂(東京都港区)
BOOKS 青いカバ(東京都文京区)
オリオン書房ノルテ店(東京都立川市)
パルコブックセンター調布店(東京都調布市)
◎東海
ザ・リブレットイオン千種店(愛知県名古屋市)
ザ・リブレット ラシック栄店(愛知県名古屋市)
リブレット大名古屋店(愛知県名古屋市)
ON READING(愛知県名古屋市)
◎関西
◎中国・四国・九州
ブックスキューブリックけやき通り店(福岡県福岡市)
ジュンク堂書店福岡店(福岡県福岡市)
先行発売のお知らせ
2018年1月17日から、二子玉川蔦屋家電BOOKフロアにて、短編集『落としもの』の先行販売をします。
【※新刊先行発売※】
— 二子玉川 蔦屋家電 BOOKフロア (@TE_BOOK00) 2018年1月17日
横田創、7年ぶりの新刊『落としもの』の先行発売を開始しました!
サイン本が5冊入荷しました(が、残り3冊です)。
『埋葬』で横田ファンになった方や、そうでない方ももちろん、ぜひご一読ください! pic.twitter.com/1KU6uqcb5S
短編集『落としもの』
- 作者: 横田創
- 出版社/メーカー: 書肆汽水域
- 発売日: 2018/01/22
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
収録作品
お葬式(「ユリイカ」2008年12月号)
落としもの(「新潮」2008年11月号)
いまは夜である(「群像」2008年1月号)
残念な乳首(「群像」2008年8月号)
パンと友だち(「新潮」2009年4月号)
ちいさいビル(「すばる」2007年11月号)
カバー・扉写真:Nguan
装幀:中原麻那
印刷所:藤原印刷株式会社
発行者:北田博充
発行所:書肆汽水域
交換することのできないもの
なにも言わなくても、まわりにいる男たちが全部してくれた。母親の再就職先も決めてくれたし、病気の治療もしてくれた。ちいさいときからずっとそうだ。なにもしなくても、なにも言わなくても機械のようにそれは動き始める。
- 出版社/メーカー: Happinet
- 発売日: 2017/11/02
- メディア: DVD
- この商品を含むブログ (1件) を見る
言葉を持たぬ子供たち
つまりは、いまここにいる自分はまだ自分ではない、いまのままではいけない、変わらなければいけないと常に自分自身を否定しつづけている状態。大人になることを運命づけられた者の仮の姿。それが子供である。『輪るピングドラム』の陽毬の余命、その運命を、わたしはそう捉えている。
緊急企画 安全保障関連法案とその採決についてのアンケート への回答(全文)
『早稲田文学 2015年 秋号』に掲載されたアンケートへの回答の全文をここに掲載します。250字という依頼を2500字と勘違いして書いてしまった、推敲前のものです。
*
強姦した者は、してないとは言わない。したはしたけど、和姦だったと主張する。まさに安倍政権がそうで、従軍慰安婦が存在しなかったとは言わないが、強制ではなかった、和姦だった、相手も望んでしたことだと主張する。あたかも和姦であるかのように日米安全保障条約を改定するという、このたびの醜態の根は、そこにあると思う。言わずもがなのことだが、すべてのセックスは強姦である。暴力によって/おいて為されるものである。すべての条約が、不平等条約であるのと同じだ。平等な条約、合意の上でのセックス。そんなものがあると思うのは、ただの妄想である。強姦であったのかなかったのか。事後的に裁決する権利は、強姦された側の者にしかない。それは、された側にだけゆるされた快楽である。これはいじめではない、みずから望んでしたことだと言えるのは、いじめられた側の者だけであって、いじめた側の者が、これはいじめではない、合意の上でのセックスだと、ただちょっと遊んでやったのだと主張することは、おれは殺してない、相手が望んだから、殺せと言うから殺してやっただけだと主張することに等しい。浮世絵が印象派の絵画に多大な影響を与えたと言えるのは、印象派の画家たちだけであるように。ほらみたことか、日本の文化は偉大なのだ。西洋にも認められたのだ主張する。この倒錯が、安倍政権と、それを支持する者たちの根源にあるとわたしは思う。かつてこの国は、アメリカに強姦された。日米安全保障条約という、この不平等条約を、和姦だったと認めるのか(=親米)。強姦だったと主張するのか(=反米)。アメリカに強姦されることで発生したものは、日米安全保障条約だけではない。日本国憲法も、同じ暴力によって/において可能になったのである。かたちを与えられたのである。ゆえにわたしたちは、日米安全保障条約と日本国憲法の発生、その生い立ちに対して、同じひとつの裁定を下さなければならない。日本国憲法第九条は和姦だったが、この条約の改定、その強行採決は強姦だ、押しつけられたものだと主張することはゆるされないことを、わたしたちは、肝に銘じておかなければならないと思う。
丘の上の動物園
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2013/11/06
- メディア: 雑誌
- この商品を含むブログ (1件) を見る
一年の中で最も日が長い季節とはいえ、赤くぽってりとした夕日のおなかが丘の稜線に触れてから暗くなるまではあっというまだった。コウノトリの巨大なケージの網のあいだから空が擦り抜けるようにして落ちていった。明るいうちは展示場の中を所狭しと走りまわっていたエミューも膝をつき、干し草の山のようなかたちになって眠っていた。逆にタヌキは行動し始めたようだけど、暗くてそこに何匹いるかもわからなかった。オジロワシの白い尾が月明かりを受けて、枝も葉もない木のてっぺんに浮かんでいた。
11月6日発売の『すばる 12月号』に、あたらしい小説を発表しました。気づいたら、三年近くたってました。いつか観た、夜の遊園地をさまよい歩く孤児の少年が、結局最後は逮捕されるか補導されるかして車に乗せられ街を離れる、えらく感動したのに名前を思い出せなくて観たのはそれ一度きりのフランス映画みたいな小説を書きたいと思い始めた仕事なのですが、夜の動物園を歩いたのはほんの一瞬でした。夜よりも暗い、あるものに触れ、抱きしめるようにして書きました。
リリイ・シュシュ、映画の主体の脱構築
自由間接話法という言葉を便利に使いすぎているのではないかという疑念はもちろんあります。だけどもうどうしようもなくそうとしか思えないのです。大変、大変遅ればせながら読み始めた、そして読み進めながら震撼とさせられている『苦海浄土』(石牟礼道子・著)という、およそ小説らしい顔をしていないのに、いや、たぶん、してないからこそ、これぞ小説、としか言いようがないこの小説は、小説ではなくてドキュメンタリーであると思われても仕方がないような書き方、語り方をしているからこそ小説なのです。
それは岩井俊二の映画も同じです。そしてそれは彼の仕事の、映像のテーマそのものでもあります。表現と名のつくものならどんなものでもとわたしは書きました。つまりはなにかについて書かれているもの、語られているものならどんなものでもそれ相応の、そして独特の自由間接話法が作動している(リリイ・シュシュのすべて=All about lilychouchou)。いまのわたしに言わせれば、図鑑や辞書も自由間接話法によるものです。wikipediaであっても同じです。フィクション/ノンフィクションなどという区別は必要ありません。重要なのは、なにか「について」書かれていること、語れていることです。
つまり自由間接話法とは、なにかについて書くための、語るための方法である。ただし、書かれているのは、語られているのはその「なにか」ではありません。あくまでもそれは「について」でしかないのです。もちろん「について」について書かれているのではありません。「について」に「について」はありません。それは不可能なのです。なぜなら「について」は、目に見えるもの、書かれたものでも語られたものでもないからです。それは世界に属していない*1。つまりは「なにか」ではない。ものではないもの。それはなにだと、これだと答えることができないもの。要するに、主体のことです。意識のことです。自己です。
主体とは、自己とは「について」である。つまりは意識のことであり、意味であり、他なるものへと向かう/帰る運動のことです。わたしはそれを自由間接話法と呼んだり隣人愛と呼んだりしているのです。他なるものへと向かう/帰るとはすなわち責任をとることです。それを「主体化」と晩年のフーコーは呼びました。なにか「について」語ることは、その「なにか」という他なるものによって/において主体的に振る舞うことであり責任をとることです。自己の自由にならないものと共に自由になることです。愛することです。だけどわたしはほんの数ヶ月前に、イタリアの作家アントニオ・タブッキの短編集『逆さまゲーム』についてのエセーの中でこう書きました。
この本の前書き(「はじめに」)の中で語られている作者の言葉を使えば、《こうにちがいない》と思っていたことが、そうでないということに気づくために、わたしたちに与えられたただひとつの方法、それは語ることである。なにかについて語ることだけが語ることであるなら、そんなことは元より不可能であるどころか逆に《こうにちがいない》を強化することにしかならないだろう。
だがもし語ることが、なにかについて語ることではないとしたら? つまりは、ありとあらゆるものに先立つものとしての、いや、ものではないものとしての語ること、言葉の運動、意味それ自体としての語ることは、わたしたちの《こうにちがいない》を解体せずにはいられないだろう。
あくまでも結果的にですが、つまりは考えたことを書いたのではなく、書くことによって/において考えたことなのですが、語られているのは「なにか」ではなく「について」であるという認識と、語ることはなにかについて語ることではなく、ありとあらゆるものに先立つ運動であり意味である、つまりは脱構築であるという認識は、同じ絶望に貫かれているような気がします。
- 作者: 和田忠彦,堀江敏幸,小池昌代,福永信,豊崎由美
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2012/05/28
- メディア: ムック
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
- 作者: アントニオタブッキ,Antonio Tabucchi,須賀敦子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1998/08
- メディア: 単行本
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
- 作者: 石牟礼道子,原田正純
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/07/15
- メディア: 文庫
- 購入: 9人 クリック: 175回
- この商品を含むブログ (54件) を見る
Tractatus Logico-Philosophicus (Routledge Classics)
- 作者: Ludwig Wittgenstein
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 2001/09/01
- メディア: ペーパーバック
- クリック: 3回
- この商品を含むブログを見る
- 作者: ウィトゲンシュタイン,野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/08/20
- メディア: 文庫
- 購入: 29人 クリック: 278回
- この商品を含むブログ (194件) を見る
ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか (シリーズ・哲学のエッセンス)
- 作者: 入不二基義
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2006/05
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 39回
- この商品を含むブログ (34件) を見る
5.631 思考し表象する主体は、存在しない。
5.632 主体は世界に属するのではなく、それは世界の限界である。……ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』どうして主体は書き込めないのだろうか?
思考し表象する主体(書く主体)とは、思考し表象する人間(書き手)のことではないからである。思考し表象する人間(書き手)のことならば、いくらでも詳しく本の中に書き加えることができる。しかし、どんなにその人間(書き手)の詳細を書き加えても、その「詳細を書き加えること」そのものについては書くことができない。いや、その「詳細を書き加えること」についても、さらに記述を加えることはできる。しかしその場合には「さらに記述を加えること」そのものについては書くことができない。
このように、どうしても書き込めない主体とは、思考し表象する人間(書き手)のことではなくて、思考する・表象する・書くということそれ自体である。そのような「行為それ自体という主体」は「思考され・表象され・書かれた」内容の中には登場しえないが、しかしその内容を成立させている「不在」としてはある。「思考し表象する主体が、世界の限界である」とは「書くことそのものとは、書かれた内容の全体をぴったりと覆っている不在としてある」ということと同じである。
……入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』
*1:5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。……ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
この先の方法
- 作者: 橘上
- 出版社/メーカー: 思潮社
- 発売日: 2011/07
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 54回
- この商品を含むブログを見る
花子。かわいいよ花子。えっ何? 何でこんなにかわいいの? かわいい。本っ当にかわいい。かわいいわ。何つーか、その、かわいい。ばりばりかわいい。花子をミキサーにかけて、どろどろした花子ジュースをつくったとしても、絶対かわいい。もうヤベェ、ヤベェヤベェ。電柱があって、その電柱を花子と思い込めばかわいいもん。もう何だろうな。死ねよ。死んじゃえよ。何でお前みたいなのが生きてるんだよ。もう死んじゃえよ。マジで。(「花子かわいいよ」)
この詩の登場人物は花子ではない。正確に言えば、花子だけではない。かわいいも「えっ何?」「何つーか」の何もこの詩の重要な登場人物であることに気づいた者はミキサーやジュースがこの詩の通行人であり電柱がそこに立っていることに気づくだろう。それだけではない。ヤベェもこの詩によって/において重要な役を与えられている。ヤベェヤベェとくり返されている。電柱と花子とかわいいが死ねと死んじゃえよを連れてヤベェヤベェと歩いてくる。花子は確かに主役でこの詩の主人公だが唯一の登場人物ではない。いや、人物である必要はない。言葉であればじゅうぶんなのである。
ゆるしてくれよとぼくがいう ぼくみたいなぼくにいう いつでもだれでもよかったけれど、かなしみはいつもかなしめず、さびしそうにわらうだけ こんなふうにちからつきてみせる すきとおったぼくは あいつのおきにいり なまえをしらないけれどきにすることはない あいつもぼくをなまえでよばない (「この先の方法」)
この詩がこの詩によって/において言っている、というよりわたしたちの目の前でやって見せている=証明している通り「こんなふうにちからつきてみせる すきとおったぼく」は登場しない。「この先の方法」と題されたこの詩の主題は、ぼくの「この先の方法」ではなく、言葉の「この先の方法」である。ぼくでなくても「いつでもだれでもよかった」のである。
(ところで、かなしめないかなしみなどあるのだろうか。かなしめないかなしみは、それでもかなしみなのだろうか。それとも、もはやかなしみではないのだろうか。と、ぼくみたいなぼくにぼくはいう。いつでもだれでもよかったけれど、ぼくにいう。ぼくはいう。なまえをしらないあいつにぼくはいう。ぼくのしらない、ぼくをしらないあいつにいう。ぼくでないぼくはぼくなのだろうか。ぼくはぼくでなくてもぼくなのだろうか。ぼくでないものについてかたるぼくはぼくなのだろうか。ぼくでないものなのだろうか。それとも、どちらでもないものになるのだろうか。ことばになれるのだろうか。)
両義的でも多義的なのでもない。言葉はその言葉の隣りにある言葉である。隣りにある言葉の名付け親でも子でもなく、隣りにある言葉自身である。自分自身ではないもの自身であること、それが言葉であることである。言葉のこの本質なき本質を、自己なき自己を、かなしみを、意味とも論理とも隣人愛とも自由間接話法ともわたしたちは呼ぶのだけれど、ここでそう呼ぶ必要はないだろう。隣人は人である必要はない。愛とは人が人を愛することだけではない。かなしみだって、かなしみである自分を愛することができる日もあればできない日もある。ベテラン看護師がふと看護師である自分を看護師であったと、もうじゅうぶん自分は看護師であったと思う宿直の夜があるように。汚れて向こう側が見えない窓ガラスも窓ガラスである。赤ちゃんは、いづれかならずおおきくならなければならないわけではないのである。カバは自分がカバと呼ばれていることを、おそらく知らない。知らないと知ることもできない。かなしみは、かなしみと口にする、あるいは手で書く者のかなしみではない。かなしみはかなしみである。手や足がなくてもそのひとがそのひとであるように。死んだからといって、そのひとがいまここから、わたしの前からいなくなったからといってそのひとがそのひとでなくなったわけではないように。そのひとがそのひとでなくなってしまったように感じるのはむしろ、そのひとがそのひとであることを、きのうの夜、しゃべり過ぎてしまったと後悔する次の日の午後である。自由間接話法は、言葉を言葉で語る/語らないための、いつでも誰にとっても新しい「この先の方法」である。
あなたが新しく通り過ぎるなら 濡れたままでもよかったけれど 時計を合わせるのに 何年も費やしてしまったから それでもあのこははしらなかったから バスは予定通り来てしまう 何もさわらないで
バスは来さえすればいいのです さるひつようなどないのです 来てください 来るだけのバスでいてください (「雨」)
言葉で言葉を語ることはできない。なぜなら言葉は語るだから。語るでない言葉は言葉でないから。言葉であるとき、すでに言葉は言葉ではなく、語るであるほかないものだから。語るを語ることはできない。目に見えないものを目に見えないもので表象することはできない。雨は降ることはできても、雨は降るが降ることはできない。雨が降るが降るには、たとえばバスという降るはずのないものの愛が、かなしみが、摩擦が、突き刺さるが、傷が必要なのである。
バスは走る 雨になって走る 鳥と何度も摩擦して 先がじょうずにまるまった しゅうしょくされないあの塔へ いつかのあした、ふりそそぐ バスはあなた以外でいっぱいです バスは降る 雨になって降りながら 塔の上に突き刺さる 刺さりながらも車輪をまわして 空と摩擦し傷をつけ 傷口から 雨が降る (「雨」)
- 作者: 橘上
- 出版社/メーカー: 思潮社
- 発売日: 2007/12
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 53回
- この商品を含むブログ (4件) を見る